ルークス皇帝に冷やかされ、エルバートの機嫌が悪くなる。
カイに言われる前から自分も花嫁候補のことで冷やかされる予感はあったが、
ルークス皇帝にまで直接冷やかしを受けることになるとは。
ただただ恥ずかしく、腹立たしい。
「冷やかしてすまない」
「まぁ、機嫌を直せ。めでたきことなのだからな」
「お前とこのような話が出来て、嬉しく思うぞ」
ルークス皇帝は心内を伝えると、真剣な眼差しを向ける。
「それに、身分の低い女を傍に置いたのはお前のことだ、ただ胃袋を掴まれただけはないのだろう?」
「はい、魔を祓う力を持つ者の家系の女にございます」
エルバートがそう答えると、ルークス皇帝は納得する。
「そうか。先が楽しみであるな」
* * *
ルークス皇帝に呼ばれた後、
エルバートは中庭で軍師長として軍の指導を行った。
しかし、ルークス皇帝から冷やかしを受けた影響でいつも以上に厳しい指導となり、
顔が整った同期でライバルの青年、シルヴィオ・ルフレにも、さすが女に胃袋を掴まれた奴は違うな、と嫌味を込めた冷やかしを受け、
午後からは執務室で時にため息を付きながらも山積みの書類に全て目を通し、 気付ければ夜になっていた。
「エルバート様、お疲れ様です。いつもの紅茶をご用意致しました」
エルバートは椅子に座ったまま、ディアムが持つおぼんから紅茶を受け取ると、紅茶を飲み、一息つく。
そしてディアムの紅茶の片づけの間、エルバートは書類を整え、執務室の窓から外を見つめる。
思っていたより、だいぶ、時間が押してしまったな。
今日はルークス皇帝からの呼び出しもあって、いつも以上に疲れた、
はずなのだが、この後、フェリシアとの晩飯が待っていると思うだけで、
疲れは感じず、心すら弾んでしまっている。
(軍師長の立場である私が、こんな調子では皆に冷やかされたのも無理はないな)
やがてディアムが執務室に戻ってくると、エルバートはディアムを後ろに連れ、執務室、しばらくして宮殿を出て、宮殿近くの馬留め場を管理している兵達の元まで歩いていく。
そして、兵達に軍師長、ディアム殿、お疲れ様です、と挨拶され、高貴な2頭の馬を囲いの扉から出してもらい、エルバートとディアムはそれぞれ馬に乗り、ブラン公爵邸に向かった。
しかし、その途中でディアムが強張った顔をし、後ろからエルバートに呼びかける。
「エルバート様」
「あぁ、分かっている」
宮殿を出た辺りから魔の気配を感じていたが、どうやら、このまま帰してはくれないようだ。
エルバートが馬を止めると、ディアムも後ろで馬を止める。
「気配からしてたいした相手ではない」
「馬を見張っていろ、すぐに終わらせてくる」
「かしこまりました」
エルバートは馬から降り、ディアムから離れ、
人気のない森影に移動し、いつでも抜剣できるよう、剣に手をかける。
すると、地面に隠れていた人に害を及ぼす異形なアンデットのスケルトンのような姿をした魔が後ろからぐあっと現れ、帰ル、と、
エルバートの精神に声を響かせ、すぐさまエルバートの中に入ろうとした。
エルバートは瞬時に振り返り、月が夜空に光輝く中、剣を抜き――――、ずばっ!魔を剣で真っ二つに美しく斬った。すると、魔は浄化され、光と共に消えた。――終わったか。エルバートは鞘に剣をカチッと入れる。それにしても、今日は特別に麻紐で髪をくくり、魔除けの効果は上がっているし、魔が自分をつけ狙うなどあり得ないはずだが。だとすると、自分を乗っ取り、帰る目的であったとするならば、魔の狙いはフェリシアか?調べた結果では“フェリシアには魔を祓う力はない”と出ているが。(まぁ、なんにせよ、浄化は終わった。早く帰るとしよう)* * *「ご、ご主人さま、おかえりなさいませ」しばらくして、フェリシアは玄関で跪き、頭を下げる。「あぁ、ただいま帰った」「それから立て。もう跪くな」「か、かしこまりました」フェリシアは立ち上がると、エルバートの髪を一つにくくった麻紐が緩くなっていることに気づく。「あの、ご主人さま、何かあったのですか?」「その、お帰りが遅かったので…………」フェリシアはそう言って、ハッとする。(帰りが遅いだなんて、勤めを終えて帰られたご主人さまになんて失礼な事を!)「も、申し訳ありません!」「いや、私の方こそ、晩飯のことを命じたにも関わらず、遅くなってすまない」「帰り際に魔に襲われてな」「え、魔に!? お体は大丈夫ですか!?」「あぁ、たいした魔ではなかったからな」「とにかく、着替えてくる。晩飯の準備をしておいてくれ」「かしこまりました」その後、食事室でスープや副菜、パンが並ぶ中、メインであるフォアグラムースのクロケットを顔を見合せて食べる。エルバートの髪は下ろされ、軍服は昨日出会った日のものに着替えをしてきたのだろう。髪が下ろされただけで、安堵感があるのと同時に、初めてのエルバートとの晩ご飯に緊張してしまう。「どうした? 手が止まっているぞ」「いつも一人で食べていたもので……」「それにわたしのような者がご主人さまと晩ご飯を共にするなど恐れ多くて……」「そうか」「花嫁候補は過去に何人かいたことはあったが」「私もここで共に晩飯をするのは初めてだ」(ご主人さまも、初めて、だなんて)「朝も美味かったが、この晩飯は特別に美味いな」(あ、ご主人さま、初めて、微笑んでくれた…………)自分も微笑み返したかっ
* * *伯母が優しく手を握ってくれた時、自分は夢を見ているのだと気づいた。この時は4歳で、お互いに普段とは違う綺麗な格好をし、伯母が初めて自分の手を握り、そのまま手を引いて歩いてくれて、ボロ家の近くにあるゴシック様式の美しい教会まで連れて行かれた。「ローゼおばさま、ここがトクベツな教会?」教会の前でフェリシアは見上げて尋ねる。「えぇ、そうよ」「魔を祓う力があるかどうかの儀式を行う特別な教会よ」――魔を祓う力? 儀式?「司祭様、ローゼ・フローレンスです。只今、フェリシア・フローレンスを連れて参りましたわ」伯母がそう言うと、教会の扉が開き、優しそうな司祭が出てきた。「この子がフェリシア・フローレンスですね。では中へお入り下さい」言われた通り、中に入る。けれど、すぐさま、伯母と引き離され――、抵抗する間もなく、ショートベールを被り、純白な格好をさせられて、言われるがまま、祭壇の前に跪く。「ではこれより、魔を祓う力があるかどうかの儀式を始めます」「さあ、目の前の神に祈りを捧げよ」司祭の言葉の後、伯母が席で見守る中、祈りを捧げ、儀式が始まった。司祭によると、魔を祓う力があれば、光が見えたり、何か聞こえたり見えたりするという。しかしながら、何も変化は起こらず、結果、フェリシアには魔を祓う力がないことが分かった。そして、伯母が優しく接してくれたのも、手を握ってくれたのもこれきりだった。魔を祓う力さえあればきっと、伯母に奴隷として扱われず、愛され、幸せに暮らせていただろう。自分は神に見放された“いらない子”なのだ。* * *「――――はっ」深夜、フェリシアはベットの上で目覚めた。嫌な夢を見たせいか、両目からは涙が流れ、首元も
「やはり、何かあったのだな」「なぜ、ここまできた?」もう、話すしかない。「嫌な夢を見て、気分転換に夜風にでも当たってこようと思って…………」「嫌な夢、とは?」「4歳の時にローゼ伯母さまに教会まで連れて行かれ、魔を祓う力があるかどうかの儀式を行った夢です」「ご主人さま、わたしは両親のことをよく知りません」「なので、両親について詳しく教えて下さいませんか?」真剣な眼差しで尋ねると、エルバートは、分かった、と言って話し始める。「お前の父、ロイス・オズモンドと」「お前の母、ラン・オズモンドには魔を祓う力があり、オズモンド家は代々、その力を引き継いでおり、特にお前の両親は力が強く、金持ちだった」「この国では、力がある家系は国から保護され、皆、金持ちだ」「しかし、お前が3歳の時に両親が前皇帝と同じ魔に殺され、亡くなった。それを良いことにローゼはお前を引き取った時、かなりの遺産も手に入れている」「よって、ローゼはお前にその事を知られたくない為、家系や力の事を隠していた」「もちろん、お前に力があれば、もっと金がもらえたので期待したが」「お前に力がない事が分かり、落胆したそうだ」(ローゼ伯母さまは、やはり嘘をついていたのね)両親の力のことを知っていた。それゆえ、力がないことが分かり、つらく当り、自分を虐げていたのだ。フェリシアはこれまでよりも強い絶望感を抱き、胸を痛め、涙が止まらなくなると、エルバートは月にその姿が見えないよう、自分の手を引いて抱き締め、全てを包み隠した。* * *そして翌日の午後。エルバートは執務室でため息をつく。深夜、中庭で思わずフェリシアを抱きしめてしまった訳だが、フェリシアは今朝も美味しい朝食を作り、見送ってはくれるも元気がなく、自分もさっさとその朝食を一人で済ませ、家を出てきてしまった。
「だが、帝都は危険だ。いつ魔が襲ってくるかも分からない」「そうですね。ですが、エルバート様の程の方が付き添っていれば、魔も恐れをなしてフェリシア様の近くには寄っては来れないでしょう」「だといいが」帝都の街にフェリシアを連れていくならば、やはり、ドレスが必要だな。フェリシアは初日のドレス以外は美しいものを持っていないようだから、日頃の料理の感謝を込めて渡したい。だが、いきなり、自分のドレスを作る為に仕立て屋が来たら驚くだろうし、自分も気恥ずかしい。嘘をつくほかないか。「ディアム、何着かドレスを、“使用人の仕事着”との名目で仕立てたい」「仕立て屋に明日の午後に家に来るよう伝えろ」「かしこまりました」* * *「――え? 明日の午後に仕立て屋が来るのですか?」夜、寝る前に廊下でフェリシアがエルバートに尋ねる。「あぁ。使用人の仕事着を仕立てる為、大きさを測りにな」「明日も勤務な上、よろしく頼む」エルバートはフェリシアの承諾した言葉を聞かずに廊下を歩いて寝室に向かう。自分の言葉も聞かずに行ってしまった。フェリシアは俯き、胸元をぎゅっと掴む。(わたしの態度がずっと悪かったせいね…………)その後、時間は瞬く間に過ぎていき、翌日の午後になると、ブラン公爵邸に華やかな帽子を被った美しい仕立て屋が訪れた。先に男性を測ると言って、ラズールに仕立て屋は着いていき、やがてラズールとクォーツの大きさを測り終えたと言って戻ってくると、仕立て屋はリリーシャの大きさを測り、続けて自分も測ろうとしたので、自分には勿体無くて一度遠慮したけれど、料理をする時の服がいると、リリーシャに体を押さえられ、その隙に仕立て屋が自分の大きさを測り、帰って行った。そして一週間後の夜。仕立て屋が再び、ブラン公爵邸に訪れ、エルバートに呼ばれたフェリシアは大広間に向かう。「入れ」
* * *翌日、高級な馬車の中でフェリシアはちらりと前を見る。いつもと表情が変わらない銀の長髪の冷酷なエルバート。なのに今日は貴族衣装姿で、よりいっそう輝き、美しく見える。自分もリリーシャにお化粧と髪を整えてもらい、大げさなドレスではないとはいえ、身の丈に合わない勿体ない程の華やかなドレスを着ていて、緊張と共に気持ちがふわふわする。嫁いだ日はディアムが御者を務める馬車で一人きりだったけれど、今は同じ馬車でエルバートと向き合って座っていて、なんだか夢を見ているよう。「こうして馬車に乗るのは久しぶりだな」「そうなのですか?」「あぁ、登城も馬だが、呼ばれて出向く際も常に馬で移動している」(ご主人さまは軍師長。馬の方が乗りなれているのはなんら不思議ではないわ)「その、居心地、悪いですか?」フェリシアは恐る恐る尋ねる。「――いや、お前と乗る馬車は新鮮で悪くはないな」深い意味なんてないのに。(そんなふうに言われたら、照れてしまう)* * *しばらくして帝都に着くと、エルバートが差し出した手に自分の手を添え、馬車を降りる。帝都は自分が住んでいた場所とは比べ物にならない程、華やかで――思わず眩暈がしそうになった。「行くぞ。絶対に俺から離れるな、良いな?」「は、はい、かしこまりました」フェリシアはエルバートの隣をおずおずと歩き始める。エルバートからは魔除けのネックレスやドレス、そして料理のお給金まで得ていて、貰いっぱなし。だからせめてこのお給金で何かお返し出来たら良いのだけれど。そう考えていた矢先、貴婦人達の声が聞こえてきた。「皆さま、ご覧になって! エルバート様よ!」「ま
「少し早いが、ランチとしよう」「か、かしこまりました」フェリシアはすぐさま受け入れ、エルバートと共に歩き出し――、しばらくして、エルバートがレストラン前で歩みを止めたので、自分も立ち止まる。レストランのオシャレな窓の前にはテラス席があり、周りに置かれた春の美しき花が咲き誇る花壇はとても魅力的で、すでに席の空きはなく、高貴な人々が会話を弾ませ、賑わいを見せていた。こんな格式の高いレストランで今からランチをするだなんて。とても気が重い。「あ、あのっ」「そんな不安そうな顔をしなくても大丈夫だ。入るぞ」エルバートはフェリシアに手を差し出して、フェリシアが手を添えると、短い階段を共に上がり、重厚そうな扉を開ける。* * *店内は落ち着いた雰囲気で、テーブル席がいくつもあり、各席には白いテーブルクロスの上に花瓶が置かれ、綺麗なオレンジ色の花が添えられていた。(わ、素敵…………)そう思ったのも束の間、エルバートの存在に気づいた周りの客がざわめき出し、慌てて大人びた男性が駆けて来る。この男性はレストランのオーナーらしく、少し予約より早い時間に着いたが大丈夫かとエルバートが確認を取ると、大丈夫だということで、特別室へと案内される。特別室は窓から差し込む陽光が心地良い空間で、予約までしてくれていたことに恐縮しつつもエルバートと向かい合って座る。「いやー、それにしてもエル、驚いたぞ」「まさか女連れで来店するとはな」オーナーのエル呼びに驚くと、エルバートは、はー、と息を吐く。「オーナーとは幼少の頃から親しく、来店する際には互いに家族のような感じで接している。今日は特にうっとうしいが」「そ、そうなのですね」「うっとうしいとはなんだ。こっちはやっとエルにも春が来たかって喜んでんのに」「今度こそ、このまま結婚か?」エルバートは冷ややか目線を向ける。
「あ、あの、ご主人さま、男性のアクセサリーのお店に寄りたいのですが?」勇気を出して聞いてみたものの、自分の要望などエルバートが聞き届けることはきっとない。「どうしてだ? まあ、良い」思っていたことと反対の返しに、フェリシアは驚く。「えっ、よろしいのですか?」「あぁ、帝都に来た際にいつも立ち寄る店でも良いか?」「は、はいっ、ありがとうございます」お礼を言い、エルバートに付いていくと、やがて男性物のアクセサリーのお店に辿り着き、一緒に中に入る。「これはこれはエルバード様、お久しゅうございます」店の優しそうな主人が声を掛けて来た。「あぁ、久しいな。見せてもらってもいいか?」「どうぞどうぞ。ゆっくりご覧下さいませ」「あ、あのっ、エルバード様に似合うオススメのお品は何かないでしょうか?」口を開き、そう勢いよく主人に尋ねたフェリシアは、ハッと我に返る。――しまった。つい聞いてしまった。「そうですねぇ、あ、これはいかがでしょう?」主人がチェーン付きの勲章のようなブローチを差し出す。(あ、かっこいいブローチ……ご主人さまに似合いそう)けれど、自分はいつ婚約を破棄されてもおかしくない身。そんな自分からお返しのプレゼントをされてもエルバートはきっと喜ばないし、おこがましいに決まっている。でも、何もせずにはもういられない。「そのブローチ、買わせてください」「お前、何を……払えないだろう?」「だ、大丈夫です。お給金を持って来ておりますので」フェリシアはお給金を主人に差し出してブローチを買い、ブローチを主人から受け取る。「あ、あの、付けても……?」「あ、あぁ」胸を
近くには寄って来る様子はないが、そろそろ、ここを離れた方が良さそうだな。「今から帝都を離れ、特別な場所に向かうが良いか?」「は、はい」フェリシアに了承を得ると、ディアムが御者を務める馬車の元まで歩いていき、ディアムに手を差し出され、エルバートから順に馬車に乗り込む。そしてすぐさま馬車が動き出し、向き合って気まずく座るフェリシアをよそに窓の外を見つめる。魔は明らかにフェリシアを見ていた。監視とはほんとうに胸糞が悪い。* * *フェリシアはふぅ、と息を吐く。(ご主人さま、目も合わせてくれない…………)ぎゅっと自分の胸元を掴む。エルバートは余程、自分がプレゼントしたブローチが迷惑だったのだ。フェリシアも窓の外を見る。早く謝りたいけれど、エルバートが言う特別な場所とは一体どこなのだろう?そう疑問に思いつつ、馬車は進み――、しばらくして、特別な場所に辿り着いた。初めて見る景色にフェリシアは目を奪われる。特別な場所では海が広がり、白く美しい花が咲き誇っていた。その花々を見た時、家に咲く同じ花を両親と見たことをぼんやりと思い出す。――ああ、無意識にこの花に惹かれ、料理の皿にいつも添えていたけれど、両親と見た大切な花を自分は添えていたのだ。この美しい景色と両親のことを思い出し胸がいっぱいになると、エルバートが隣で口を開く。「帝都の帰りには必ずここに寄ることにしている」「綺麗だろう?」「――はい、綺麗です、とても」「あの、ご主人さま、ブローチ、ご迷惑でしたよね。申し訳ありません」「いや、私こそ、つい嫌な態度を取ってすまなかった」「あれはその……、照れ隠しだ」「ブローチをお前からプレゼントされるなどと思っても
* * *こうして、翌日からエルバートが早く帰ることはなく、ブラン公爵邸に帰って来てから気づけば、一ヵ月になり、その日の夜は何故か眠れず、フェリシアは居間のソファーに一人で座ったまま、ふぅ、と息を吐く。すると、エルバートに自分の名を呼ばれ、ハッとする。いつの間に居間に入って来たのだろう?足音さえ、気付かなかった。(大丈夫だと言ったくせに、こんな姿を見せては元も子もないわ)「あ、どうなされたのですか? もしかして眠れませんか?」「いや、私は家の見回りをしていただけだ」(家の見回り……魔が入ってわたしが襲われないように?)勤務でお疲れなのに、そこまで気を遣わせていただなんて。「あの、今、お飲み物を……」「必要ない。それより、支度をしろ。今から出掛ける」出掛けるって、こんな夜遅くに?(もしかして、自分に嫌気がさして、捨てられ……いいえ、きっと大丈夫)「かしこまりました」そう了承し、支度が完了すると、ディアムが御者を務める馬車に乗り、お互いに無言のまましばらくの時が流れ、辿り着いたのは、広がる海に白く美しき花が咲き誇る場所だった。(エルバートさまにお姫様抱っこされ来たけれど、とても綺麗な場所…………)もしかしたら、ここはディアムから聞いていた……。「お前を特別な場所へ連れて来たのは2度目だな」「1度目はお前と帝都の街に行った帰りにここへ連れて来た」(あぁ、やはり、記憶を失くす前のわたしと来た特別な場所だったのね…………)「そう、なのですね」「――だが、この木の前に連れて来たのは初めてだ」エルバートはそう言い、たくさんの蕾を付けた大きな一本の木の前でフェリシアを下ろす。(エルバートさまは、記憶を失くす前のわたしも、今のわたしさえも大事にして下さっている)「もうじき、深夜だな。見ていろ」フェリシアはエルバートと共に大
* * *エルバートは執務室の椅子に座りながら、ハッとする。なんだ? このただならぬ気配は。医務室か?エルバートは執務室から飛び出し、ディアムと共に医務室へと駆け付ける。「何があった?」エルバートは見張りの兵に問う。「エルバート様! 医師が寝室までルークス皇帝のご様子を見に出られ、見張りを続けていたところ、医務室内で邪気が発生し、扉が開かず、只今、入室出来ない状況でございます!」「そうか、退いていろ」エルバートは扉に右手を当て、祓いの力を使い、くくった長髪が靡くと、扉を勢いよく開ける。すると床に倒れるフェリシアの姿が両目に映った。「フェリシア!!」エルバートは叫ぶと同時に駆けていき、フェリシアを抱き起こす。魔はいないようだが、魔に弾き飛ばされ触れた箇所から邪気が溢れ、体全体を邪気のようなものに包まれているようだ。エルバートはフェリシアを抱き起こしたまま祓いの力を使う。するとフェリシアの頭痛は治まり、楽になったようだった。(……? 何かを持っている?)エルバートは両目を見開く。「これは私が帝都で渡したブレスレット……」恐らく、中庭の時にネックレスを失くしたのと同じくブレスレットを失くし、探す為にベットから一人で下りたのだろう。エルバートは切なげな顔をする。「もう私のことを思い出そうと頑張らなくていい」エルバートはフェリシアの左腕にブレスレットを付けて持ち上げ、ベットまで運び、寝かす。それから椅子に座るとフェリシアが、か弱き声で発した。「…………花が、見たい」その言葉で、エルバートは希望を感じた。(もしかしたら、私の記憶はフェリシアの心の奥底に残っているのかもしれない)そして、もう一度、あの咲く花を彼女と共に見れたなら。「――あぁ
* * *それからこの日を境にフェリシアは落ち着くまでブラン公爵邸に帰宅させることは出来ないと、祓いの力を持つ医務室の天才医師に診断され、しばらくの間、医務室で治療を受けることとなった。その為、エルバートとディアムも宮殿で寝泊まりすることになり、エルバートからリリーシャ達にその皆を伝えるように命じられたディアムは一旦馬で帰り、自分のせいで、ふたりに多大な迷惑を掛けることになった。早く思い出さなければ。そう思ったフェリシアは医務室に戻って来たディアムに密かに頼み、エルバートが執務で忙しい時に、アベル、カイ、シルヴィオに医務室まで来てもらい、エルバートのことを聞いた。「軍師長の様子なら、執務に集中出来ていない感じですね。着替えもせず、髪もくくったまま、フェリシア様のことばっか考えてますね」「カイ、そんなふうに言ったらフェリシア様が気にするだろう?」「フェリシア様、申し訳ない。でもまあ、フェリシア様が初めてだな、エルバートに色々な顔をさせるのは」アベルに続いて、シルヴィオも口を開く。「冷酷な鬼神だったのに今は惚気ているな」「誰が冷酷な鬼神だ」エルバートがそう言って医務室に入ってくる。「おかしいと思って来てみれば、さっさと出て行け!」エルバートに命じられ、アベル達はフェリシアに会釈をして医務室から出ていった。その後は毎日少しずつディアムからエルバートのことを聞いた。エルバートがフェリシアの家にご婚約の手紙を届けたことからブラン公爵邸で暮らすことになったこと、普段は月のように美しい銀の長髪を流したままなこと、ビーフシチューがお好きなこと、ご主人さまと呼んでいたこと等、これまでの日々のことを。けれど、思い出すことが出来ず、エルバートのことを朝も昼も夜もずっと考え続け、いつしか、8日目の夜になっていた。宮殿のお料理は病人食とは言え、どれも自分には高級で美味しい。けれど早く帰り、自分
* * *――――フェリシアをエルバートとの婚約の意を含めた“正式な花嫁候補”とする。医務室にいるフェリシアの心にルークス皇帝のお言葉が響く。まるで呼びかけられているよう。頭に包帯を巻いたまま、ベットから上半身を起き上がらせ、その身をディアムに支えられながらも、その声に触れるように、そっと自分の胸に両手を重ねる。するとなぜだか分からないけれど、自然と涙が溢れ出た。フェリシアはそのまま、ルークス皇帝のお言葉を聞き届けた。* * *客間でルークス皇帝のお言葉を聞き届けたエルバートは唖然と立ち尽くす。まさか、軍師長の座だけでなく、フェリシアをも守って頂けるとは。エルバートの父と母、そしてアマリリス嬢は絶句し、光がすぅっと消えると、ルークス皇帝の側近は手紙を懐に入れ、口を開く。「ルークス皇帝のお言葉は以上となります」「ならば、帰る」エルバートの父がそう言い、ソファーから立ち上がる。それを見た母とアマリリス嬢も続けて無言で立ち上がった。「では、私が宮殿の出入り口までお送り致します」ルークス皇帝の側近がそう言って扉を開け、エルバートの父と母はエルバートがこの場に存在していないかのような態度で客間から出ていき、アマリリス嬢もふたりに続いて出て行こうとする。しかし、立ち止まり、エルバートを見つめた。「エルバート様、お幸せに」アマリリス嬢は涙を浮かべながら笑顔を見せ、お辞儀をして客間から出て行く。これで、フェリシアはブラン公爵邸から出て行かずとも済むのだな。「ルークス皇帝、恩に切る」エルバートはそう感謝し、顔を右手で覆う。そのまま少し時が過ぎると、フェリシアがいる医務室へと向かった。* * *フェリシアはディアムに心配されながらも医務室のベットで起き上がったままでいた。すると医務室の扉が開かれる音が
「フェリシア様が記憶を喪失してしまわれるだなんて……」アマリリス嬢が動揺した声を上げると、エルバートの父は右手で顔を覆う。「ルークス皇帝までも上回る魔の出現だと?」「そしてルークス皇帝を危険に晒したとなれば軍師長の座を降ろされるのは間逃れないか」「旦那様……」エルバートの母が声をかけ、エルバートはアマリリス嬢を見る。「よって、フェリシアの記憶喪失、そして一時とはいえ、ルークス皇帝を危ない目に合わせてしまった私はまだ未熟である為、アマリリス嬢とのご婚約は破棄させて頂きたく思います」アマリリス嬢が両目を見開くと、エルバートの母が怒りの声を上げる。「ご婚約を破棄するですって!? エルバート、どれだけブラン家に泥を塗るおつもりなの!?」「そもそも、本日の魔の出現はフェリシアさんが原因ではなくて?」「ブラン伯爵邸の付近に魔が出現したのだって、フェリシアさんが訪れた日だったもの。間違いないわ」「だからこれ以上、フェリシアさんとエルバートが関わることを私は決して認めなくてよ」「それに、貴方のことを忘れたのなら丁度良いじゃない。あんな不吉なお人など責任を全て負わせ、今すぐお捨てなさい」「そして、エルバートには旦那様がお決めになられた通り、2日後、アマリリス嬢をブラン公爵邸に住まわせ」「アマリリス嬢と正式にご婚約して頂くわ」エルバートの母がそう啖呵(たんか)を切った。「どこまでフェリシアを愚弄すれば気が済む」エルバートはとてつもない冷ややかな殺気を放つ。まさに、その時だった。失礼致します、と皇帝の側近が扉を開け、中に入って来た。「ルークス皇帝により直々にお言葉を頂戴致しましたので伝達に参りました」「このお言葉は皇帝専用の医務室におられるフェリシア様、ディアム様にも伝わるようになっております」ルークス皇帝がお言葉を?
フェリシアの言葉を聞き、エルバートとルークス皇帝は両目を見開く。まだ混乱している、のか?「フェリシアよ、我のことは分かるか?」「ルークス皇帝……?」ルークス皇帝のことは分かるようだな。「フェリシア、私はエルバート・ブランだ」「エルバート・ブラン?」フェリシアはその名前を口にした瞬間、頭痛が起きて意識を失い、くたっとなった。「フェリシア!!」エルバートは叫ぶ。「エルバートよ、これより酷な事を言うが」「フェリシアの身体は大事ないようだが、どうやら頭を打ちつけたこと、そして魔の影響で一部の記憶を」「お前の記憶を喪失したようだ」エルバートの瞳が揺らぐ。まさか、そのような、嘘だろう?エルバートは切なげな顔でフェリシアを強く抱き締める。「フェリシア……」その後、皇帝の間に皇帝の側近、ディアム、兵達が駆け入り、ルークス皇帝が魔に襲われエルバートと共に浄化したことを伝え、念の為、ルークス皇帝も共に皇帝専用の医務室へ行くこととなった。そしてルークス皇帝とエルバートは大事なく、フェリシアは頭に包帯を巻き、ベットで安静となると、エルバートはルークス皇帝の前に跪く。「ルークス皇帝、責任を取り、私は軍師長を降ります」「エルバートよ、その必要はない。軍師長を辞める事は、許さん」「しかし……」「ただ、このままでは示しが付かないと我の側近が不祥事としてお前の両親に通達をした」「もうじき、宮殿に来るによって対面し、起こった事を全て伝えることとなる。良いな?」「承知致しました」* * *やがて、エルバートの父であるテオと母のステラ、そしてアマリリス嬢が馬車で宮殿に到着し、客間に案内され、待機の状態になったとのことで、エルバートはディアムにフェ
* * *「フェリシア!!」エルバートの悲痛な叫び声が皇帝の間に響き渡る。フェリシアが魔に弾かれた時、彼女の口元が微かに動いたように見え、お ま も り で き てよ か っ たそう言っているように思えた。恐らく、フェリシア自身は気付いていない。心の中で思った言葉が自然と口に出たのだろう。エルバートはフェリシアの元に駆けようとするも、ルークス皇帝の姿が目に入り、ぐっと堪える。フェリシアを今すぐにでも助けたい。だが、(私はルークス皇帝に仕える身。ルークス皇帝を優先に守らねば)エルバートは切なげな顔を浮かべる。すまない、フェリシア。少しの間、待っていてくれ。エルバートは冷酷な顔で剣に手をかけ、抜く。「魔め、フェリシアをよくも!」「ルークス皇帝には触れさせない」魔は袖の中で左右の手を合わせ礼をする仕草から両袖をバッと広げ、少し見えた左右の手から黒き液体のような炎を無数に放つ。エルバートはその炎を瞬時に斬り、浄化していく。だが、一部の炎が軍服の袖を少しかする。すると袖が少し溶けた。袖だけで済んだが、この炎は触れたものを全て溶かすらしいな。魔は炎を放ち続け、エルバートも斬り、浄化し続ける。「くっ」これではキリがない。そう思った時だった。神の憤りのような物凄い気迫を感じた。すると魔も感じ取ったのか固まる。「エルバートよ、我と共闘せよ」玉座から立ち上がったルークス皇帝が気迫を放ちながら言い、玉座の踏段を凛々しい光を司る神のような姿で下りてくる。そして、エルバートの隣で剣を抜く。「今から詠唱を唱える」「お前にも詠唱の言葉を脳裏に流すによって、続けて唱えよ」「はっ! ルークス皇帝の仰せのままに」エルバートがそう答
「フェリシア、そしてエルバートよ、顔を上げよ」フェリシア達は跪きながら顔を上げる。(帽子のショートベール越しでは、よくルークス皇帝のお姿が見えないわ…………)「フェリシアよ、顔が良く見えん。帽子を取れ」フェリシアは命じられた通り、帽子を取る。すると、天蓋付きの玉座につくルークス皇帝の姿が鮮明に両目に映った。美しい紫髪に、エルバートが言っていた通り、優しく穏やかな雰囲気で、(まるで、神様のようだわ)「ほう、これは別嬪であるな」フェリシアは唖然とし、エルバートも驚く。(わたしが別嬪!? お世辞かしら…………)「フェリシアよ、会えて嬉しく思うぞ」「どうだ? ここは心地良いだろう?」そう言われて気づいたけれど、確かにとても気分が良く、体も軽くなっているような。「はい、とても心地が良いです」「ここは特別な結界で守られているからな」「そして今日、エルバートにここに連れて来させたのは、お前のことを知りたいと思ったからだ」「よって、フェリシアよ、我の元へ上がってまいれ」「か、かしこまりました」(わたしのようなものが、ほんとうに上がっても良いのかしら…………)フェリシアはそう思いつつもルークス皇帝に命じられた通り、玉座の踏段を上がっていく。するとルークス皇帝が玉座から立ち上がる。「右手の甲を差し出せ」「は、はい」フェリシアは右手の甲を差し出す。「少しの間、触れる」ルークス皇帝はそう言い、フェリシアの右手の甲に触れた。そしてルークス皇帝は納得すると、触れるのを止める。「エルバートよ、そのような顔をするな」(あれ……? ご主人さま、な
宮殿内は豪華絢爛で、もっと圧倒され、すぐさま使用人達の注目の的となった。「あの方がエルバート様の胃袋をお掴みになられたフェリシア様?」「これからエルバート様と共にルークス皇帝とお会いなされるそうよ」「すごいわ。けれど、フェリシア様は今後エルバート様にご婚約を破棄され、エルバート様は正式にアマリリス嬢をお選びなられるとの噂よ」「そうなの? もし噂がほんとうならお気の毒ね」そんなコソコソ話を聞いても、圧倒されているせいか、さほど気にならず、やがて、執務室の前でルークス皇帝の側近が足を止め、フェリシア達も立ち止まった。「こちらが控え室となります」「控え室が執務室だと? 貴賓室の間違えではないか?」エルバートがルークス皇帝の側近に問いかける。「いつもおられる場所が落ち着くと思い、執務室と致しました。ルークス皇帝のご準備が整うまでこちらでしばらくお待ち下さい」ルークス皇帝の側近が執務室の扉を開け、ディアムは廊下で見張る為、フェリシアとエルバートのみ中に入る。するとメイドがワゴンで紅茶とお菓子を持って来て、テーブルに置き、出て行くと扉が閉まった。(ここがいつもご主人さまが執務をなされているお部屋……。書斎よりも広いわ)そう感激していると、エルバートがソファーに座る。「フェリシア、隣に座れ」フェリシアは声をかけられ、ハッとした。(つい、嬉しくて、ご主人さまを置き去りにしてしまっていたわ)「は、はい」フェリシアはエルバートの隣に座る。そして、エルバートと共に紅茶を一口飲む。(あ、美味しい……)少し気持ちが落ち着くと、廊下でディアムが誰かと話している声が聞こえ、扉が開く。優しそうな青年、明るく元気な青年、顔が整った青年が続けて入って来た。するとエルバートは嫌な顔をする。「ディアム、なぜ私に一言もなく開けた?」